311震災以降
福島の避難所で出会ったおばあちゃん、おじいちゃんたちとお米づくりを始めた
物資を渡すたびに頭を下げ、「ありがとうございます!」
と言われることが辛く
みなさんのもっとも得意なお米づくりや山菜採りを教えてもらい
こちらが、「ありがとうございます!」
を言えるようにしよう
そんなことからスタートした
6年目となると
これまで出会って来た福島各地の家族が参加してくれたり
東京や新潟、そして宮城からも参加してくれる賑やかなものとなって来た
みんな大家族のように
再会を喜び合い
田んぼのことを
おじいちゃんたちは孫や、ひ孫くらいの年齢の子供達に教え
それぞれが助け合い
そして喜びあって1日を過ごす
かつては稲刈りや田植えの季節になると
親戚一同が集まり各々の田んぼの仕事を手伝っていた
今では
機械化も進み核家族化も進み
それぞれの事情からも
それほど集まらなくなって来ているだろう
「家族のように」
これがとても気に入っている
本当の家族だったとしたら
それぞれがもっとわがままを言って見たり
そもそも参加しなかったり
うまくいかないこともあるだろう
「家族」だから当たり前
「家族」のために
「家族」という最小単位の社会では
それぞれの「家族」に独自のルールがある
それこそ
独裁政治の国があったり
超個人主義の国もあったりする
それは差別ではないか?
犯罪に近いようなことも、、、
社会のために活動しているから
「家族」をないがしろに、、、
きっとみんなそれぞれに大変なんだろう
でも
このお米づくりで集う1日は
月命日の1日とも違い
年長者は教えることが多く
女性たちはご飯の準備をしたり
子供達は虫を捕まえて遊んだり
限りなく
自然な家族構成となる
みんながお互いを気遣い
思いやりを持ち
自然と接し
そして
みんなの食べ物をみんなで作る
言いたいことを我慢して
やりたくないのに無理をして
もしかしたらそれぞれに思うこともあるかもしれない
偽物の家族かもしれないけれど
それでも
一日中みんなの笑い声が聞こえ
そして出来上がったお米を食べる時も
みんなで喜びあって
そして何より
美味しくいただくことができる
偽物かもしれないけれど
「平和」っていうものを実感する
田植えの時も稲刈りも
収穫祭の時も「平和」な時を実感する
津波のことや地震、原発のこと
放射能や風評被害がどうでもいい訳ではないけれど
ずっと意識していることは
「絆」って言葉
「絆」ってそもそもなんなんだろうか
普段は使わないが
災害が発生した時だけ登場する言葉
なんのための「絆」なのか
ずっと気になっている
wikipediaで調べると
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絆(きずな、きづな)は、本来は、犬・馬・鷹などの家畜を、通りがかりの立木につないでおくための綱。
しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていた。「ほだし」、「ほだす」ともいう。
人と人との結びつき、支え合いや助け合いを指すようになったのは、比較的最近である。
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なんだか自分にとっては「家族」って縛りと近いようにも感じる
被災当時
みんなが絆!絆って叫んでいたことも
偽物っぽくて滑稽に思えるけど
偽物っぽい「大家族」が行なっている
このお米づくりは
もしかしたら
現代の「絆」づくりなのかもしれない