Candle Odyssey 2005 -CHINA- 中国へ
2005.8.11
成田発、中国南方航空CZ628審陽へ。
飛行機は小さく乗客はいっぱい、4時間後到着。
中国を案内してくれる「程サン」と会う。
19時50分発「チチハル」行き寝台列車。
駅は古く混沌としていたが、クーラーのついた綺麗な車両だった。中国大陸は電車で移動したいと、珍しく自分から程さんにお願いしていた。
2005.8.12
AM6:00チチハル到着、
タクシーでホテルに向かう。
一休みしてから、日本の残した化学兵器などの研究家に逢いに行くが、その人のいるのは、チチハル共産党本部の建物の中だった。
程さんも、緊張するほどの貴重な体験だった。
8月15日の平和式典への参加が決まり、他にもどこに行ったら良いか等、幾つかアドバイスを貰えた。
その後、幾つかの旧日本軍の工場跡地や研究所跡を見て回る。
そして市内からはなれた場所にある博物館を訪ねる。
そこでは日中戦争の歴史と、現在受けている化学兵器の被害報告を見る事が出来た。
(建築中の地下から発見された金属製容器、それが日本軍の残していった化学兵器とはわからず、発見した作業員やそれを回収した産廃業者、また現場からでた土は小学校のグランドに使われたのでその土によっても子供が被害を受けてしまった)
もちろん日本も、多額の賠償金を中国政府に渡しているが、被害者のところまで届いていない。
今こうしてその人達に会いに中国の地に来たが、その被害者達は訴訟の裁判のため入れ替わる様に日本に発っていて逢えなかった。
この博物館に訪れた日本人は、自分が初めてらしく取材を受けた。
今までの旅の事や、ここに至るまでの経緯を話す。この旅での一つの目的、勝手に日本人代表として言葉での謝罪という事が果たせた。
その後も、いろいろ回ったが所々でカンボジアを思い出す。
坂がなくいつまでも平坦な地形や匂い、空や色が似ていた。
夕方早めの夕食を食べ、明日は「ハルピン」へ
2005.8.13
朝、駅からハルピンへ向かう。北京行きの電車。クーラーは入っているが対面式の、リクライニングなしの座席。
中国人はとにかく良くしゃべり、どこでもよく食べる。
4時間弱でチチハルよりも大きなハルピン駅へ到着。
大勢の人と車でごった返す中、ケンタッキーフライドチキンへ入る。中国のマックやケンタッキーはとにかく人気で混んでいる。
ここでハルピンを案内してくれる女性に会い「東北烈士博物館」へ向かうが、あいにく8月15日まで改築工事らしく入れなかった。
諦めて民族資料館と教会へ行く。
教会は25元必要とあり、驚いたが、中は礼拝堂ではなく有名な観光名所でハルピンの歴史資料館となっていた。
チチハルよりも数倍都会的なハルピンでは、どうやら今日「ハルピン・ビール祭り」らしく、ビールは飲まないが会場でしばらく休むことにし、行き交う人々を観察する。
夜は東北料理の人気店に行く。
ここまでの中華料理はとてもおいしかったが、油の多さや辛さによってあまり食べられなくなって来ていた。
日本ではよく食べるし、辛いのも甘いのも好きと言っていたが、これからは海外では口にしない様にしようと思った。
2005.8.14
6:00起床。公園へ行く。
すさまじい数の人、
皆が太極拳をしているのかと思えば、意外と、社交ダンスやバトミントン、合唱など様々で、
書道や器械体操の大車輪と、とにかく50代以上の異常な人数の男女が集まっていた。
その後、朝食を取りにいくが、お腹も減っていなかったのでコーヒーが飲みたいと、
日本では滅多に行かないマクドナルドへ。
その後731部隊のあった場所に行く。
日本人の残虐的行為の記録が展示してある。
はじめて目にする事実が多く、原爆資料館と比較しつつも色々考えさせられた。
これから先より多くの日本人がここを訪れたら、いや訪れるべきだと思った。
ホテルで昼食をとり、13時の電車でチチハルへ戻る。
駅の中は、すごい人の数で、想像していた中国を感じる。ハルピンに来た時よりもはやい電車らしく16時にはチチハルへ到着。また同じタクシーの運転手が迎えに来てくれていて、なんだか帰ってきた喜びを感じる。
同じホテル同じ部屋。
今日は中国に来て初めての晴天、太陽は暑く、心地よい。ホテルの部屋から夕日を眺める。
明日は終戦記念日
こっちでいう「抗日戦争勝利の日」。
2005.8.15
今日は、式典に参加。
またしても凄まじい人の数だ。
日本では終戦記念日は静かな一日だが、中国では勝利した日で喜び、お祭りの日である。
式典の内容は偉い人の挨拶や何組かの歌手の出演。
また驚いたのはチチハルのシンボルである鶴が放たれ一斉に飛び立った事だ。ここでは平和のシンボルが鳩ではなく鶴らしい。
しばらくすると小雨が降り始めたので皆帰り始める。
自分達も終わりまでいないで、「抗日博物館」へ向かう。
共産党員の幹部達が出るのを待って、入ろうとしたが一般人は今日は入れないという事で諦める。
ここまででなぜか異常に疲れたのでホテルに帰って休む。
16時にホテルの外が賑やかだったので、起きると道路はものすごい水たまりで車が沈んでいる。
水はけが悪いのかとにかく坂の無いここでは、至る所が膝下までの水たまりとなってしまった。
現在審陽は大雨なのでここ以上に大変というが、無事に日本に帰れるのか心配になってきた。
当初の予定では式典の後、「平和公園」でロウソクを灯す予定だったが未だに雨風が強いので諦める。
とはいえどうしてもこの日に中国で灯したかったので2日前に散歩で訪れていた教会に行く。
神父にこれまでの旅の話をして、教会で灯す事が出来るかどうか相談した所、心よく迎え入れてくれた。
夕方5時半からのミサに出席した。
ミサ終了後に静かにロウソクを灯そうと思ったが、神父が皆に自分の事を紹介してくれ多くの人が残ってくれた。
熱心に自分の話も聞いてくれ、また誰かが教会の蝋燭を持って来て
自分のロウソクから火をわけ、信者全員がそれを持ち始めた。
話が終わり祭壇の前に自分が立つと、そこに寄り添う様に神父が来てまたそのまわりを信者の方達が取り囲んだ。
ひざまずき、自分が祈り始めると、神父や信者は同じ様に祈りそして賛美歌を歌い始めた。
ここまでの旅で出逢った人達全ての事が思い出され、
たくさんの人々の想い、そして、自分の願いが体の真ん中に集まり額から天につき抜けて行く。
それをまた取り囲む信者達の暖かいエネルギーが包み込み後押ししてさらにおおきな光の固まりとしてくれるような感覚を得た。アメリカの旅の時にネイテイブアメリカンの女性から授かった祈りの唄のその時と同じ想いがした。
ようやく中国に来てここに住む人に迎えられた気がして、言葉や国境を超えて繋がれた気がした。
最高の時、どんな快楽よりもこの一瞬を忘れないだろう。何人かの信者から泣きながら「ありがとう。」と握手を求められた。
ホテルに戻る時も多くの信者が荷物を持ちたいといってくれたが、
「これは自分の仕事です」というと、それでもと皆ホテルまでついて来てくれた。
部屋に戻ると、昨日以上の夕陽が待っていた。
しばらく眺めながら、今起こった出来事を振り返る。
すべてが美しいと思え、
何色とも言えない光をみた。
2005.8.16
はじめに訪れた市から離れた博物館に行く。
館長さんをはじめ多くの人が集まってくれて、しばらく話し合いをする。
お互いが、持っている国のイメージや想いなどを伝えあう。
やはりお互いメディアの偏った情報で多くを誤解しているようだった。
博物館でも蝋燭を灯してくれとなったので考えた結果、強烈な印象の写真の前にした。
そこに映る悲惨な殺され方をした方や実行した日本兵、
この人達はこの先もこの悲惨さを伝える為にここで展示させられ続けるだろう。
本当に成仏出来るのはこの写真から学び、二度とこういった行為がされなくなり
展示する必要がなくなる世の中になる時だろう。
この写真に写っている方達の遺族達に平穏な暮らしと、亡くなっている方達は成仏出来る様に願いながら灯した。
そこでもまた幾つかの取材を受ける。
その後館長をはじめ文化庁の方等が、実際に、激戦区だった場所を案内してくれた。
今その跡形はなく緑いっぱいの平原だった。
あと、その村を訪れたときから気づいたのだが、中国のいたるところには大麻が自生していた。
驚くほどの量、驚く程のサイズであった。
歓迎の昼食会が開かれた。
9・11以降ここまで、かたくなに守っていた禁酒を、ここで破ることになる。
勝手に日本人代表としてこの旅をして、その個人を受け入れてくれた館長や、文化庁、青年団と、改めて平和を願う杯を交わすことになる。
どうしてもというので一杯だけの乾杯で終わると思い一気に杯を飲み干したのだが、乾杯好きの中国人は一杯では終わらなかった。
さらに残念な事に、そのお酒は老酒で40度はあった。
中国人も何人か倒れていったがなんとか気合いで持ちこたえる。
なぜか負けず嫌いがここで顔を出す。
現地の人はとにかく昼間からよく飲むらしい。
通常老酒を昼食のときに多くても2本ぐらいがいいところらしいが、この時は5本開けていた。
いつ終わりか心配になったが、最後までギブアップする事なくその時は来た。
最後にビールで乾杯しようといわれて、少しだけ勝負に勝った気がした。
タクシーに乗り込む迄は、必死に冷静を装った。が、車が動いたと同時にギブアップ。
ホテルに戻ってから倒れる。
上からも下からも内蔵全てを吐き出すかの程吐き出す。
この夜広場で蝋燭を灯し、何組かの取材を受けるはずだったが、キャンセルする事になる。
便器に向かっている情けない自分が鏡に映っていた。
なんとも予想のつかない一日だったが、ほんとうに人間らしい優しい人々がチチハルの人だった。
教会での輪の一瞬のように、円卓を囲んでの昼食会の事も、一生忘れないだろう。
2005.8.17
夜中から何度も起きてはトイレへ行くがなかなか具合は戻らない。
腹の調子は中国へ入ってからずっと悪かったが、昨日の酒がだめ押し、夕食も食べられず駅に向かう。
本当は自分でお世話になった方達に届けたかったが、蝋燭を運転手のおじさんに託す。
審陽行きの電車に乗り10時間の旅。
延々続く平坦な大地は ほとんど建物など無く、手つかずの草原かトウモロコシとひまわり畑、途中いくつかの都市を通過し夜審陽に到着する。
中国最後のホテルでは久しぶりに風呂に入る。
依然として腹の調子は悪い。
ここまでの旅でだいぶわかってきたが、どこで灯すかあらかじめ決まっているような気がした。
それはどこに行くかという事なのかもしれないが、ホテルを出て散歩している時に気になった教会や、最初ひどい写真でどうしていいか解らなかった写真の前。
ロウソクを灯す旅も数をこなしてきているからか、良い意味で無駄が無くなってきたのか、出逢うべくして出逢うという言葉が、より信憑性をましてきた。
終戦60周年目にしてようやく隣人との第一歩を始める事が出来た。
帰りの飛行機の中で考えた、この旅は確実に先に進んでいるとはいえ、自分に出来る事のなんと小さな事か。
日本では、沢山の大きな蝋燭を灯す事が出来て、少しは人を楽ませたり驚かせたりする事も出来るかもしれないが、この一人旅では自分が持てる量の限られた小さな蝋燭を灯す事しか出来ない。
アメリカを廻った時の事を思う。
出来る事ならばまた多くの友人とたくさんのロウソクをもってチチハルを訪れたいと思った。
最後にこの旅に賛同してくれた多くの方に感謝したい。
とくに中国を案内してくれた程さんは上海の都会派で、田舎も電車の移動も苦手と言っていたのにこの旅に賛同し、無償でガイド役をかってくれた。
そして、テレビ関係者の友人達にも感謝したい。
程さんとはいろいろ話せたが、「戦争やテロを終わらせるというJUNEの意見は難しい」と言いつつも、誰よりも積極的な動きをみせてくれ、短期間ながらも完璧な案内をしてくれました。
程さん、ほんとうにありがとう。
JUNE